ケ
久し振りのブログ。
特に、書き溜めておいた最近の文章もないのでさっき書いたブログ。
お気に入りの場所に座って書いているからなんだか心が弾む。
最近、文章を書くことが少なくなった。
シンプルに書きたいことがない、書きたい程の感情が乗っかる事柄に出会っていない、からだと思う。
いや、逆に空白のない日々を過ごしていたからかもしれない。予定を入れて忙しない時間を過ごしていたからかもしれない。
日常の一瞬一瞬を愛せる程の感知性能を備えていないので、日常を切り取って文章にすることが私には難しい。
だから、”日常”を過ごすと途端に文章が捗らなくなるのかもしれない。
冒頭で「お気に入りの場所に座って・・・」と書いたけれど、
私にはその様な場所がいくつかあって、そこに行くとリフレッシュ出来る。
どんな人にもそんな心落ち着く場所があるのだろう。
それは、場所でも時間でも誰かの横でも。
好きな時間や空間はただそこにいつも当たり前の様に存在してくれていて、その当たり前に気付かないまま、ドデンと居座ってしまうことが殆どだ。
これって贅沢なことなのかもしれないし、別にそんなこともないのかもしれない。
今ある幸せに鈍感なことこそが、幸せの証の様な気もする。
私の場合はというと、表に出てしまう、というか溢れ出てしまう。
「あ~幸せ~」と、内にある感情を言葉として外に昇華させる。感情を直接的に言葉にするとその感情がより増大される気がしている。これは体感的且つ感覚的な話だけど。
言葉にはそんな力も備わっていると思う。
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今、外は強い風が吹いているみたい。帰るのが億劫になるなあ。
(あ、これ、日常の中の今の感情)
そういえば、最近、自転車事故をした。
携帯と自転車と身体にいくつかの怪我を負った。
不便になって、日常の空間・時間の移動をこれらに頼っていたことを知った。
そして、その日常を取り戻そうと修理に出したり交換したり治療したりして、また前の”日常”に戻る為の働きがけをした。
(以下、簡単なあらすじ)
主人公の仁木順平という教師の男が夏休暇中に昆虫採集の為、ある部落を訪れた。その晩、部落の村長に宿泊先を案内される。朝目覚めると、そこは”砂の底”になっていて、その穴に閉じ込められてしまう。そこには一人の女がいて、毎日ただ砂をかき集めるという仕事をしている。教師として社会的地位を確立し、昆虫採集という趣味に打ち込むなど快活に生きてきた男は、砂を集めるだけの毎日を過ごすその女を哀れみ、馬鹿にする。しかし、女は淡々と仕事をし続ける。その女の様にはなるまいと何度もその穴からの脱出を試みるが、失敗に終わる。砂の穴の中では、学問的知識も昆虫の知識も使い物にはならず、砂を集める女の方が”生活”しているということに気付いてしまう。。。
という物語なのだが、
過去の”日常”生活を取り戻す為に砂の底からの脱出を試み続ける男。
その先に新たな”日常”を獲得する男。
そして、砂の中での生活が”日常”へと変わった変化を受け入れる(慣れてしまう)男。
日常或いは習慣を手放すということに対する人間の臆病性
と
最終的にはその環境に適応した人間に変化していくという柔軟性
と
もがいてもその環境からは抜け出すことが出来ないという現実の凶暴性
無情なまでの現実と、リアルな人間の姿が婉曲的に描かれている。
男の様に砂部落での生活に閉塞感を覚えようとも、女の様に今ある環境に適応しようとも、そこでの生活は続いていくという、救いようのない?救う必要のない?無慈悲なまでの現実を文字通り、本物の砂の様に掴むことが出来なくて、理解出来ない”怖さ”を感じたのを覚えている。
砂という液体の様な固体を題材にし”現実”を描写したこの小説に鳥肌が立った経験を思い出した ので少し話が脱線してしまったが、
まあ、緩やかな日々の中で「日常」について少し考えてみたという記録だ。
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夏真っ盛りですね。8月も折り返し地点に入りました。
春が終わり梅雨も明けてもう夏も折り返し地点。
2023の夏はどんな夏を過ごしてる?或いは、過ごしていく?
春に残していたメモ書き
「今日、大学に行く途中で見た一枚の光景がとても美しかった。
晴天の空の下、桜の木がある公園で色違いの洋服を着た女子二人が顔を見合わせて思い切りブランコを漕いでいて、(同じ波長で、同じリズムで、)その光景に微笑ましさを感じていたら目の前をトイプードルを自転車の籠に入れた春化粧をしたおじさんが通り過ぎていったのだ。なんという美しい光景だろうかとしみじみと感じた。日本の原風景があの一瞬に詰まっていた。
ああ、明日には忘れているのだろうなあ。」
梅雨に残していたメモ書き
「今年の6月は、人生で一番楽しい6月になった気がしてる。(「人生で一番」とか「一生のお願い」とか「死ぬ気で」とか、そういう”テキトー”な言葉に対して最近ようやく寛容になれてきた気がする。)6月が6月じゃなかったみたい。ある意味、季節に先入観を与えられていたのかもしれない。
6月は梅雨の時期で鬱々しいみたいな共通認識?「ジメジメ」「ドンヨリ」する季節ですが……みたいな前置きがもう違うと思った。そんな枕詞がついてしまう6月が可哀想だ。確かに「ジメジメ」した日は多かった。けれど、その分、雨の香りを体感できたし雨が上がった後の澄んだ空気に触れることが出来た。6月という季節は梅雨だけのものじゃない。6月にそういう楽しみ方を持ち込んだら、人生で一番楽しいと感じられる6月になっていた。」
いつの間にか過ぎていた季節や時分の中で記録したメモや日記を見返すと、自分がその時間に存在していたことが確認できて何だか不思議な気分になる。
きっと、これらが私が過ごしていた日常の一コマなのだろう。
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ではまた。
♪ オワリはじまり (かりゆし58)