井の中の蛙、大海へ出る  ぴょ~~ん

 

 


ブログを始めることになった。

 


と、他人事のように書いたのは自主的に始める訳ではないからだ。
私は今、とある人の楽しみを増やすために書いている。それだけのために書いている。

 


普段思ったこと考えたこと楽しい事辛い事は日記に書いたり、散歩中・入浴中に独りで話して適度に発散させている。時たま、家族や友達に聞いて貰ったりもしているから特段塞ぎ込みすぎているという感覚もなければ、

みんな!!!私の話を聞いてくれ!!!という世間に何かを強く訴えかけたい気持ちもない。

 


今、私の目の前はパソコン画面とキーボードの世界で完結していて、

だから、この画面の奥にいる”人”が読んでると思うと何だか気が引ける。そもそも自己開示や自己表現が苦手な人間だから、尚更、自分の内側をさらけ出すこの行為には気後れしかない。

 

 

 

 


と、後ろ向きなことをつらつらと書いてきたが、ただ、新しく始めることにビビってるだけの小胆な人間の前置き的な言い訳なのでさらりと受け流して欲しい。
(*「つらつらと」の正しい意味は、「よく考える」なので「つらつらと書く」という言葉は本来間違っている。「破天荒」と同じ。正しい意味と大衆の認識がズレている言葉。)

 

 

 

◇ ◇ ◇

 


22歳の私の頭の中は日々、価値観や考え方が変化していて忙しい。

他人にとっては取るに足らないようなことばかりなんだろうけど、とはいえ、私は私の尺度からしか物事を図れないし、その時々の色眼鏡で世界を見て考えて生きている(つもりだ)。
(*「考え方が日々変化している」と書いたけれど、そもそも人って”変わる”生き物なのかそれとも”変わらない”生き物なのかさえも分からない。とか考えていたら「下手の考え休むに似たり」という言葉に出会って、「年中休日で幸せ者だな、働け」とか思う。)

 

 

 

◇ ◇ ◇

 


自分の感情や考えを表現すると、どこか孤独感を感じる。
自分の中に留めておけばその考え方は絶対的で最適解で最善なのに、外界に晒された瞬間、何億分の一に過ぎないとてつもなくちっぽけな存在になってしまう感じがするからだ。

井の中の蛙が大海を知る”瞬間の感覚に近いかもしれない。

(*蛙が大海を知る時の感情って「驚き」とかなんかなって勝手に決めつけてたけど、そうじゃないのかも...)

とは言っても、池だろうが、海だろうが、川だろうが、桶の中だろうが、

カエルはカエルで何も変わらない。

 


もっと言えば幸せなカエルは幸せだし不幸なカエルは不幸だ。

 

 

 

海に出たら出たでそのちっぽけな孤独感と引き換えに何か新しい感情や体験を得られるかも知れない。

 

 

そんな気概で私は海の中に飛び込んでみようと思う。

 

 

 

◇ ◇ ◇


と、、、そんな矢先にこんな記事[https://mdpr.jp/news/detail/2878066]が目に止まった。「言えないことが絶対的に深み」...か。
あ~もう何も書きたくないし言いたくないな~浅そうで深い人間になりたいな~。
けど、彼はラジオを通して”言って”いて、だからこそ彼の思考に魅力を感じられる訳だ。 自分も偶には外に出していこう。

(*記事の中にある「個性」についても「人はいろんな顔を持っている」のところも最近考えてたことだ。あ~分かるな~。)

 

 

 

なんてね。

正直、最近は内に籠もるフェーズから抜けて、もっと外に興味を持とう!っていう意識が強いからこのブログで書いたことは半分嘘で半分本当だったりもする。

 

 

 


ま、なんでもいっか!
じゃ、また!

 


来週!