SOZO 

 

夏の終わりも久しく感じる今日この頃。時は10月に入った。

 

人には、季節の区切りと共に心を新たにするという習慣がある様に思う。(入学式、新年、長期休み明け等々…)季節と心を共鳴させ、それを表現することは貴族の嗜みであり、生活であり、コミュニケーションツールであった。

 

 

 

私の好きな和歌の一つにこんなものがある。

 

「冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ」

 

清少納言の曾祖父である清原深養父の歌)
(意味:まだ冬でありながら空から花が散ってくるのは、雲の向こうはもう春なのであろうか。)

 

高校の国語の教科書に載っていたこの歌に感激して、一人、頭の上で雪を(花を)降らせていた(脳内お花畑とはまさにこのこと)あの時間は今になってより大切なものに思われる。

雪の降る日の空の色を思い出してみて欲しい。霞がかった灰色の空、その空を覆う雲。歌人は、その雲のさらに奥の世界を想像し情景を思い浮かべて言葉をリズムに乗せた。雪と花びらを重ね合わせて季節を詠む、そんな歌人の感性に高校生の私は酷く胸を打たれたのだ。

 

 

生活に余裕があるからこの様な和歌を詠めたのかもしれない。            暇だったからこの様な想像を出来たのかもしれない。                 ただ寒く暗い冬の終わりと暖かい春の訪れを待ち望んでいただけなのかもしれない。

和歌が作られた背景をこれらのように語る人もいる。

 

でも、

これらも等しく想像の世界の話であって、

どんな想像をしようと「想像の世界」は自由なのだ。

 

 

 

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「想像」と言えば、

私の好きな映画の台詞にこんなものがある。

 

 

「犬に想像力なんかあるわけないよな?犬だけじゃない、猫だって羊だってきっと無いと思う。だからこそ彼らは人間みたいに悩んだり、落ち込んだり、自分で首を吊ったりしないんじゃないのかな。俺は絶対に想像力を捨てたりしないよ。」


貴志祐介の小説「青の炎」原作、蜷川幸雄が脚本演出監督を務めた2003年に公開された映画)

 

物語の前後がある中での台詞であるが、人間という存在の本質を突いている言葉だと思う。想像するという行為は古来より人間がしてきた行為の一つだ。空想でも想像でも妄想でもなんでも良いのだけれど、その営みを疎かにし始めた時、人は人として生きることから遠ざかってしまうのではないかと私は思う。


たかが想像、されど想像だ。

 

現実と現実の隙間で想像(空想、妄想)する心を常に携えておきたい。そういう生き方をしたい、とか思う。                               日常生活の中に飲み込まれると気付かぬ内に忘却の彼方へと追いやられてしまう「美しい」ものを「美しい」と感じる心。その”美意識”を手放した時、人は腐敗し始めるのではないだろうか。

 

 

「朱に交われば赤くなる」 

 

確かにそうだ。                                けれど、染まりたい色があれば、「美しい」と感じる色があれば、その色に染まることで自分をさらに洗練させることが出来るのではないかと思うのだ。

 

「”綺麗”と感じる朱と交わり”綺麗”な赤に染まる」

 

そんな色の人生を送れたら幸せだ。

 

 

 

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最後に

「色」にまつわる言葉を一つ。

 

若さの持つエネルギーとは、もともと無色無方向なことを特色とする。」

北杜夫著「どくとるマンボウ青春期」新潮文庫

 

”無色”が色と認識されていること
「無と特」という相反する言葉が共存しつつの軽快な文章表現になっていること   にグッときてメモした言葉である。

 

 

無色無方向な時間を生きる今だからこそ、好みの色を自ら創造していけたらいいなと思う。

 

 

 

 

 

 

 


それでは。

 

 

♪ Raindrops keep falling on my head lyrics (B.J.Thomas)